2012年6月30日土曜日

「ありがとう」の一言に尽きる


今日も暑い一日だったなあ。
最近はこの言葉で始める日が多くなったように感じる。まあ、夏なのだから暑くて当たり前だ。
ただ、吾輩の見守る秀林は、東からの海風が一部は吾輩にぶつかり、秀林部落内の風を循環させ、一部は、吾輩の後方に広がる、太魯閣渓谷へと流れていくため、風通しを良くする。
だから、どんなに暑い日でも、木陰に入ると、涼しい風を感じる事が出来る。
やはり自然というのは大切にしなければならない。

さて、恒例の吾輩の言いたい放題だが、今日は少し趣きを変えて、例の日本人夫婦の今の心境を表現してみた。
旦那・嫁・娘に吾輩が「秀林生活に対する気持ちは」と尋ねたところ、


この一言に尽きるそうだ。

まずは、この世に生まれてくる事が出来たことに「ありがとう」
今、生かされていることに「ありがとう」
ここまで様々な修行のチャンスを与えて下さった人々に「ありがとう」
秀林部落に引越しする事が出来て「ありがとう」
今まで色々な面で支えて下さっている秀林部落の皆さんに「ありがとう」
そして、今日も一日無事に終えられた事に「ありがとう」

これが正直な気持ちだそうだ。「ありがとう」の言葉に理屈はいらないよな。心からの「ありがとう」は、それ以外の言葉を必要としない、素晴らしい言葉(心)だと吾輩は思うな。

明日は、6月最後の日。諸君も一度落ち着いた気分で、静かに目を閉じ、この1ヶ月間に起こった様々な良きこと、悪しきこと、嬉しきこと、悲しきことを思い出し、そして、その全てに、心から「ありがとう」と言ってみるがいい。そうすれば、この1ヶ月間が素晴らしい1ヶ月であったと改めて感じることが出来ると思うな。








2012年6月28日木曜日

感謝で始まり、感謝で終わる


いつもこのブログに登場する日本人家族の旦那の正直な今の心境がこれだそうだ。
いきなり言いたい放題から始まったが、この心、吾輩も大切だと思う。
大切な事は、最後の「感謝の心を教えてもらえたことに、また感謝」という部分だ。

朝目覚め、「今日も新しい朝を迎えさせてもらた」その事に感謝をし、夜は「今日一日、様々な修行(人生経験)をさせてもらえた」事に感謝する。今日の修行があるからこそ、明日の朝の感謝がある。
修行過程で、色々な人達に色々な事を教えて(経験)もらえたからこそ、すべての意味で(いい事も悪いことも)、今日一日を充実して送れたわけだ。その事に感謝する。すなわち、教えてくださった人達が居たからこそ、感謝できるのだから、これらすべての人達にも感謝する必要がある。

以前にも吾輩は言ったが、「怒り」から生まれるのは「憎しみ」「恨み」。そして、相手にも同じ気持ちが生まれてしまう。
人生、いい事ばかりでない事は諸君が一番よくわかっているはず。悪いこと、嫌なことがあるからバランスが取れる。だから、「怒り」の心を「感謝」の心に変えれば、人生、何倍にも楽しく過ごせる。

話はガラリと変わり、本来、今日は台風の影響で秀林部落も天候が荒れると思っていたが、非常に良い天気だった。



しかし、夜から急に雨が降りだし、今は非常に雨足が強い。台風の影響がそろそろ出始めたようだ。
この様子だと、明日は吾輩の姿を秀林部落の皆にお披露目する事は難しいかもしれん。
この雨で少しは涼しくなってくれると良いのだが。
秀林はもうすっかり夏模様だ。昼間は34度まで気温は上昇。しかし、湿度が低いから木陰に入ると気持ち良い風を感じる事ができる。








2012年6月27日水曜日

失ってからでは遅いのだ!


今日の秀林はとても暑い。吾輩の顔の周りも雲で覆われてしまい、これも近づいている台風の影響かと思いきや、太平洋側は快晴ではないか!


しかし、花蓮は台北の様な都会とは違い、木陰に入ると、涼しい風を感じる事ができる。天然のエアコンとまではいかなくても、冷風扇がある様なものだ。

人間という生き物はこの地球上で自分達が支配者であると思い込んでいる様なところがあるな。
だから、平気で山を削り、木を倒し、海を埋め立て、生き物を乱獲し、公害を撒き散らし、ごみ・タバコをポイ捨てし、すべてを自分達の意のままにしている。
また、地方自治の世界に目を向けると、知事や市長などという肩書きがついた途端に、何か自分がその地域で最も偉い存在になったかのように錯覚し、自分が不要だと思うと、歴史的建造物でも平気で壊したり、市民にとっては必要だと思う施設を閉鎖したり、まあ、好き勝手をする。

そう言えば、旦那から聞いたが、日本では、歴史的建造物も老朽化が進んだ。行政の保存指定を受けていないという理由で、平気で取り壊すそうだな。正直、台湾も同じようなところがあるが、なぜに、古いものを平気で取り壊す事ができるのだろう。先人達の歴史、ストーリーを完全にこの世から消し去る権限が、その時代の人間にあるのだろうか。吾輩は不思議に思えて仕方ない。

諸君にこんな経験はないか。子供の頃使っていたおもちゃ。その時は「もう飽きた。古くなったし要らない」と捨ててしまった。しかし、数十年経ってから、テレビや雑誌でその当時のおもちゃが紹介されていて、たまたま自分が持っていたおもちゃと同じようなものが紹介されていた。すると急に懐かしくなり「あー、あの時捨てずに持っとけばよかった。後の祭りかあ・・・。」と。
この「後の祭り」という事が人間には多いようだな。

そこで今日の言いたい放題だが、


これは人間である以上、いくら気をつけていても起こりうる事だと吾輩は理解しておる。
先に述べた、自然や建物に対してもそうだが、もっと身近な事でいうと、親だ。

そう言えばこの前、旦那と娘の会話が聞こえてきた。えーと、確かこんな会話だった。

旦那 「親孝行って何かわかるか?」
娘   「親に喜んでもらえるようにすることじゃないの」
旦那 「確かにそうだな。でも、それ以外にもう一つあるのだけわかる?」
娘      「・・・・・・・・」
旦那 「それはね、親が生きているあいだに一つでも多くの想い出を作って上げることなんだよ。
普通は親の方が先に神々のところへ移民する。それまでの間、どれだけ笑顔の想い出を 
親と作ったか。それがイコール親孝行なんだよ。」

確かこんな内容だったと思う。親と子との想い出作り。子供が小さい頃は当然、想い出はたくさん作れる。しかし、子供が成長するにつれて、この笑顔の想い出というのが年々、少なくなる。

どうやら旦那の場合は、父親が非常に厳しい人だったようで、旦那が大学生になっても、必ず、家族で一緒に行動が大原則だったようで、休みごとの家族旅行は旦那が結婚するまで恒例だったようだ。しかし、旦那が結婚して家を出たあと、歳の離れた兄弟の代になってからは、この恒例の家族旅行がぐんと減ったらしい。父親が病床で「お前と一緒に行ったパラオ諸島、今度はお前の家族も一緒にみんなで行こうな。」と語ったらしい。結局、それは実現出来ないまま、父親は旅立ったらしいが、父親にとっては、旦那が大学生の時に家族で行った旅行が一つの大きな喜び出会ったことを旦那は改めて感じたらしい。

失ってから気づいてはもう遅いのだぞ。失ってから「あの時にやっておけばよかった」と後悔しても、もうどうする事も出来ないのだ。

吾輩は永年、高いところから人間の世界を見下ろしてきたが、「あの時に・・・・」と後悔して大泣きしている奴を何人も見てきた。

失う前に、もう一度、よーく考えて欲しいなあ。






2012年6月26日火曜日

人生という方程式


この澄み切った青空!ただ単に快晴というのではなく、空気が綺麗だからこそ見れる青さだ。
秀林は、東側の太平洋から海風が吹き、それが西側の山々に一部はぶつかり跳ね返る。一部は山々の間を吹き抜けていく。自然の呼吸を感じる事ができる場所が、吾輩が見守り続けている秀林部落なのだ。

秀林はもうすっかり夏。吾輩の頭上にも、夏の雲が出ておる。


自然界には守るべき方程式がある。この方程式をきちんと計算もせず、いい加減な方法で解釈すると大変な事になる。しかし、人間という生き物、それを知ってか知らずか、自分たちに都合のいい解釈ばかりして、どんどん自然の方程式を崩していきよった。その結果が、地球温暖化。
今更騒ぎ立てても遅い。何百年、何千年と積み重ねてきた方程式を崩すのは一瞬で崩せる。しかし、崩した方程式を元通りに復元するには、それまでの数倍、いや、数百倍の時間を要する。
幸いにも、吾輩が見守り続けている秀林では、大きな自然破壊というものはないのでまだマシな方ではある。

そうそう、「方程式」と言えば、人間の人生も方程式みたいなものだな。方程式問題というのは、非常に複雑で、必ずどこかに落とし穴が潜んでいる。それに気づかずに計算を続けていると、最終的に答えが出なくなったり、間違った答えを出してしまう。そうなると大変だ。また、一から見直しをしなければならず、気がつけば迷路に入り込み、もがき、苦しむ。
だからと言って、落とし穴はどこにあるとそればかりに気をとられていると、時間切れ。
問題を解きながら考える。途中で見直しも怠らずに、そして何よりも、「固定観念」で「大丈夫だ」と決めつけない。しっかりと見直すべきところは見直し、そして、これで本当にOKと納得した上で次へと進む。これが方程式問題というやつだな。
人間の人生の方程式は、人によって皆違う。だから解き方も全員が違って当たり前。
非常に奇問・難問の方程式だが、決して途中で放棄せずに、解き続けるしかない。それが人生というものなんだなあと吾輩は下界を見ていて感じる。
そんなこんなで、今日の言いたい放題は、


と言うことだ。

数学嫌いな人も、この方程式だけは解き続けねばならないのだぞ。
いいか、この方程式は自分自身が神々の世界へ移民する直前まで解き続けねばならないことを忘れるなよ。
神々の世界へ移民する時に、「やっと解き終えた。」と喜びと満足に満ちた笑顔で、移民して欲しいからな。







2012年6月25日月曜日

感動してますか?


今日の秀林は快晴!こんな日は空が澄み切っていて、本当に気分爽快である。
吾輩の頭の周りには多少の雲はあるが、視界はまずまず。
今日は一日、しっかりと秀林部落の皆を見守る事が出来る。

こんな綺麗な空を見たとき、ある人は「綺麗!」と感嘆の声を上げる。しかしその一方で、全く無反応な人もいる。吾輩が見ておって感じるのは、先の人は後の人よりも人生、一つ徳したようなに思える。
「感動する」事ができるのは、これまた、人間だけが成せる事。
感動の数だけ、その人の人生、徳しているように吾輩は感じている。
「自然」すなわち、花や風景等々に出会って感動するという事は非常に大切な事だと思う。
また、人様からの行為に感動する事も大切である。この場合、感動=恩義を感じるという事にもなるだろう。

そこで、今日の言いたい放題だが、


皆は最近、感動したか?大事な事だぞ。

感動から生まれるものもたくさんある。発想が豊かになるな。子供の頃は素直に物事に感動できたと思う。しかし、大人になるにしたがって、感動する心が薄れてしまう。色々と嫌なことを見過ぎているからかもしれんな。
だからこそ、たまには自然豊かなところで、のんびりと、浮世の事は忘れるという時間も必要だ。一見、無駄な時間を過ごしているように思うかもしれんが、結果的には、そのあとの効率が向上する事が多いと聞いているぞ。
人間の世界、見たくない、聞きたくない様な汚い世界が多いようだな。人間やってるって大変だな。でも、人間として命を授かった以上、これらも事実・現実として直視しなければいけないのだから、たまには、その疲れきった、汚れ切った心を綺麗にしてやる事も必要だぞ。外見ばかり磨いておっても、心が澱んでいたら、それは外見にも現れるからな。

いかんいかん、また、憎まれ口叩いてしまった。
さあ、綺麗な花でも見て、心を穏やかにし、感動してくれ。






信念もった「生きがい」持ってや!!


よく人間達は、「生きがいはありますか?」という質問をする。
「生きがい」ってそもそも何だろうな。
日本人の旦那に頼んで調べてもらったら、goo辞典では、「生きるに値するもの。生きていくはりあいや喜び」となっているそうだ。
「生きがい」に関しては色々な書物も出ているようだな。
吾輩が人間の生きがいについてここで論じようとは思わない。そういった難しいことは、専門家に任せておけば良い。

今日の言いたい放題は、この生きがいというのは、その年代、生きている環境、場所等々、様々な要因で、変化していくという事だ。
「これが自分にとっての一生涯の生きがいだ!」と信じて進んでいても、ある日、「いや、何かが違う」と感じる事があるかもしれない。そして、「もっと違う方向に自分の生きがいがあるのかもしれない」と方向転換する事があるだろう。または、「今まではこれが生きがいだと思っていたが、大きな間違いだった」と感じ、真逆の方向に進む事もあるだろう。
これすべて正解だと吾輩は思う。
ただし、吾輩はここで一言だけ言いたいことがある。それは、人生歩んでいる間に「生きがい」は変化するかもしれんが、例え変化しても、一本、ちゃんとして「信念」というものだけは持ち続けて欲しいという事だ。この信念なくして、生きがいが変化していくと、気がついたときにはとんでもない方向に向いている事があるからな。

吾輩は日本人家族の旦那に聞いてみた事がある。「お前さんにとっての生きがいは何だ」とな。
旦那は即答した。「難しい事はわからんが、今、自分は台湾という地で生かされている。台湾という国によって守られ、台湾の人々によって支えてもらっている。だから、自分自身が出来る恩返しをしていく事が生きがいだ。でも、その恩返しの方法は、その時の自分の状態で変化するだろう。大きな事は出来なかも知れんが、ただ一つ、「台湾への恩返しを一生続ける」事が台湾で生かされている我が家族の使命である事を子供や孫に伝え続けていく事は出来る」と答えよった。

「お金は一度返したらそれで終わる。しかし、恩は一生返し続けていくもの」というのが旦那の考えだそうだ。

旦那の信念は「台湾への恩返しを一生続ける」。そのための方法が奴の生きがいとなっているのだな。そう言えば、その方法、以前と今では随分違うな。でも、信念は同じだな。
頑張ってその信念、貫き通すのだぞ!!

今日は一日視界も良好で、気分良い一日を過ごせた。

今夜は星もたくさん出ている。明日も視界良好であって欲しいものだ。


吾輩の言いたい放題にいつも付き合ってくれてありがとう。反対意見も多いとは思うが、これはあくまでも吾輩の考え。自分自身の考えと真逆の考えであったとしても、それを単に否定してばかりいたのでは成長はないぞ。自分と真逆の意見もきちんと受け止め、批判だけをするのではなく、分析するという事が大切なのだ。
最近は、「否定」「批判」ばかりする人間が増えているようだが、それでは何も始まらない。
真逆の意見の中に、案外、今の自分の悩みを解決してくれるヒントが隠されていたりする。と、いうか、そう言ったケースが案外多い。真逆の意見を聞き入れる事によって、視野が広がるのかもしれんな。ただ、勘違いするなよ。吾輩の意見に皆が賛同する必要はない。反対意見、大いに結構な事だ。反対意見があって当然なのだ。皆が賛成、賛同するような世の中では逆に怖い。

こりゃいかん。少々しゃべりすぎた。今日はこのへんで終えよう。
最後に、いつものように、秀林の綺麗な草花達をご覧あれ。








2012年6月23日土曜日

今日は端午節!


今日は一日、本当にいい天気だった。
今日は台湾の端午節。台湾の節はすべて農暦(旧暦)でお祝いする。
各地でドラゴンボートレースが開催されている様だ。端午節といえば台湾では粽(ちまき)を食べる習慣がある。この粽は日本の粽とは違って、最も基本的なのが、もち米に、豚肉、牡蠣の燻製、椎茸、栗が入っていて、味は、醤油味。これが美味い!!家庭によって、また、地方によって、それぞれに味付け、具材、コメの種類が変わる。多種多様な粽がある。
吾輩の秀林部落では、五穀米が多いようだ。

どうやら日本人家族のところにも、部落の色々な人からのお裾分けで、多種多様の粽が集まっているようだ。粽好きの家族にとっては、一度に、色々な粽が食べれるチャンスでもあり、幸せであろうなあ。

日本人家族が粽を食べるのに夢中になっている間に、今日の言いたい放題といこう。


例えば、新しい事を始める場合、期待と夢でいっぱいだろうが、もしかすると、それ以上に不安のほうがいっぱいという場合もある。
また、何か大きな決断をしなければならない時、決断を下してからも、それが本当に正しかったのかと悩み場合もある。

結局最後は、自分を信じるしかないと吾輩は思う。自分を信じる以上、そこへ到達するまでの過程で、十分に自分なりに考え、検討する必要はある。決して、自分を信じる=自信過剰になるとは違う。
自分を信じることからすべてが始まると吾輩は思っておる。
他人は色々とアドバイスはくれる。そのアドバイスに耳を傾け、参考にする事は良いことだが、それでも、最後は、自分が決めなくてはいけない。その場合、自分を信じていなければ、必ず、決心がぶれることがある。
自分を信じる=信念を持って生き抜く事だと思うな。

簡単なようで難しい「自分を信じる」。諸君は自分を信じて生きておるかなあ。周りの雑音に心がぶれたりしてはいないかなあ?