2012年9月28日金曜日

太魯閣語を後世に残すために

台風は台湾を反れて日本へ向かったようだ。
ただ、台風の余波で風がかなり強い。そのおかげで、いつも吾輩の顔の部分を覆っている雲達が流され、久しぶりに吾輩の顔をご披露できる。

さて、吾輩が見守っている秀林村だが、この「秀林」という名は、国民党政権になってから名付けられたものである。ぞの昔、日本統治時代は「ブシューリン(Bsuring)」と呼ばれていた。
故に、太魯閣語では今でも秀林の事を「ブシューリン(Bsuring)」と言う。
元々太魯閣語には文字がなく、発音のみの言葉である。そのため、最近の若い者は太魯閣語を話せないという連中が増えている。これは危機的な事だと感じた大人達が、秀林郷役場と共同で、太魯閣語辞典なるものを製作している。

先日、例の日本人の旦那がこの辞典の編集者の一人と会って色々と話す機会があったようだ。
太魯閣語は発音だけの言葉故に、辞典も中文と太魯閣語の発音をローマ文に表したものになっているそうだ。
言葉はその部族の文化であり、歴史であり、存在そのものであるため、完璧な辞典を完成させなければならないと編集者の人が話していたなあ。
旦那も今、一生懸命に太魯閣語を覚えようとしているようだが、やはり50歳を過ぎているからなのか、元々ダメなのか、なかなか覚えられないようだ。まあ、彼の場合、中国語も独学で覚えたので、何とかなるだろう。

明日、明後日は部落からバーベキューの良い香りがあちらこちらからしてくるだろうなあ。
9月30日は中秋節。台湾では中秋節にBBQをするのが習慣だ。太魯閣族の皆もおなじである。
ただ、平地人との違いは味付けだ。
太魯閣族の人達はBBQソースは使わない。塩のみで味付けをする。だからあっさりしていて、いくらでも食べれるのがいい。
旦那家族も、旦那の台湾の弟(実際には血縁関係はないが、兄弟の様に付き合っており、台湾ではこの場合も「兄弟」と呼び合う。)の家でBBQをするそうだ。

                            【今朝の吾輩】



                          【秀林の草花たち】




 
 
 

2012年9月27日木曜日

秀林村の新しい産業を誕生させるために今を頑張る!

吾輩が見守り続けている秀林村。
この村の一番の悩みは「就職口がみつからない」という事だ。今の台湾は、失業率も4%を越え、都心でも就職難の状態である事は確かだが、そうでない時でも、「原住民」というだけで就職口がなかなか決まらない事もある。
特にかわいそうなのは若者だ。大学まで卒業したのに就職口がなく、日雇いのゴミ回収をしている若者もいる。また、就職口を求めて台北などの都会へ出ったものの、結局は肉体労働しかなく、酒や麻薬に手を出す若者も増えている。
また、40歳以上になるとさらに就職口はみつからず、結局は酒に溺れ、アルコール中毒になる人も少なくはない。

秀林の主な産業は、農業とセメント製造と石材加工。農業以外の部分はまずは平地人が先に就職し、原住民の人達は特に環境の悪い分野(危険作業であったり、健康被害が出そうな現場であったり)を中心に配置される。それも、何らかのコネがなければそう簡単には就職出来ない。

この現状を目の当たりにした例の日本人の旦那は、「秀林村に新しい産業誕生させ、雇用促進を図る」事に残りの人生すべてを捧げると決心したようだ。

この目標実現のために旦那は、3つの柱を打ち出した。

①「トンカツ移動販売の本部を秀林村につくる」事。
②「バナナジャム工場を秀林村につくる」事。
③「秀林産の無農薬野菜の販売店を台北・台中・台南・高雄につくる」事。

大きな、そして非常に難しい目標ではあるが、もしもこの3つの柱が稼働すれば、確実に秀林村の雇用は促進される。旦那としては将来的には全ての事業の責任者は太魯閣族の人達に任せたいと思っているようだ。

これらの目標を実現するためにはかなりの資金が必要となる。今の旦那には到底無理な事だが、そのための資金を作るために、旦那も嫁も毎日、必死にお弁当を販売しているようだ。
近々、バナナジャムの製造・販売も始めるそうで、すでに、試作も終わり、ラベルデザインも終了したようだ。早ければ10月中旬には販売開始となるようだ。このバナナジャムの売上は、経費を除いた分すべてを工場建設の費用として貯蓄すると決めているようだ。

旦那がここまでの決心をしたのも、太魯閣族の皆の愛に支えられて今を生かされている事への恩返しだそうだ。
何とか実現して欲しいものだ。

(ここからは旦那の弁)

確かに人が聞いたら「目標は大きほうがいいが、実現不可能に近い目標を公言しないほうがいいのでは」と言われるかもしれませんが、私は不可能な事などこの世に存在しないと信じて今まで生きてきました。そしてこれからもその気持ちは変わりません。必ず実現させます。何年かかろうと実現させます。もしも、私の代で実現できない場合は、次の世代に引継ぎが出来るようにその基礎だけは必ず作り上げて見せます。

                            【今日の吾輩】



                            【秀林の草花】




 
 

2012年9月26日水曜日

原住民に対する差別の実態

今日は近づいている台風の影響か、かなり風が強かった。こんな日は決まって砂あらしがやってくる。前回の802の台風の際には、その数日前から、5m先が見えない程の砂あらしがあった。
太魯閣族の人達の先人の知恵として、台風が近づいている時、波の音が大きく聞こえ、星が綺麗に見える時は要注意だそうだ。台風が直撃し、その威力もかなり強いと言われている。実際、802の台風の数日前から波の音は大きく、星がやたらと綺麗に出ていた。
今回はさほど波の音も大きくはなく、星も出たり出なかったりなので直撃はないと思う。

さて、話は変わるが、例えば、今ここに全く同じ条件下の1000坪の土地が2筆あるとしよう。この土地を担保にこれまた全く同じ年収の人間が2人、各々、銀行から融資を受けることになった。片方の土地は坪10,000円で融資額が決定した。もう片方の土地は坪3,000円で融資額が決定した。
土地の条件は全く同じなのに、何故、これほどまでに差が出るのか。
まず日本では考えられない事である。しかし、台湾では実際にこの様な事が日常茶飯事起こっている。
答えは、坪10,000円で融資が決まった人は、平地人(原住民以外の台湾人)。坪3,000円で融資が決まった人は原住民。すなわち、原住民に対する差別である。

国民党政府は、表向きは原住民の福利厚生の向上を行っている。例えば、戸籍所在地の公立の病院は原則無料。光熱費の援助。公立学校の様々な費用の無料もしくは大幅な値引き等々。
原住民に対しては様々な援助を行っている。
しかし、その裏には、「原住民に大金を持たせない政策」「福利厚生の充実化で原住民の都会進出を防ぐ政策」「台湾でも最も人口が多い原住民の票獲得のための過剰なまでの福利厚生を推進する政策」があるのだ。

実際、台湾の大企業、中堅企業と呼ばれる会社の社長はほぼ平地人だ。原住民が大企業、中堅企業の社長になることはまずない。
就職の際にも、原住民=肉体労働となってしまう。
今の30代後半以降の人間はほとんどこの様な経験をしている。
一方、芸能人(特に歌手)、スポーツ選手には原住民が多い事も事実だ。

例に日本人の旦那はこの事実を知り、かなり憤慨していたなあ。そして何と旦那は「秀林村雇用促進計画」なるものを作成し始めた。
この計画には、原住民の仲間をはじめ、旦那の考えに賛同する平地人も参画しているようだ。
何でも、秀林村に新しい産業を作り出し、村の若者達に夢と希望を持ってもらえる企業を皆で作るというものだそうだ。詳細はまた後日に伝える事にしよう。

最後に、吾輩は決して今の国民党を批判している訳だはない。国民党も時代の流れによって変化はしている。ただ、蒋介石以降、国民党政権が長すぎたためか、なかなか抜け切れていない部分もあるようだ。これは日本も同じだろう。

【今朝の吾輩】
 
【秀林では年に2回、桜・つつじと出会えます】








太魯閣族の人達について

吾輩が鎮座する花蓮県秀林郷は、台湾全国の中でも最も大きい郷である。人口の85%が太魯閣族。
秀林郷で最も有名な場所といえば、やはり太魯閣渓谷だろう。その太魯閣渓谷の山深くに太魯閣族の人達はもともと住んでいた。女性は結婚すると顔に刺青をした。これは漢人に妻を奪われないようするため。
日本統治時代に日本軍の命令でほとんどの太魯閣族の人達が山を下り(下ろされ)平地に住み始めた。その代表的な場所が秀林村である。
秀林村の99%は太魯閣族である。たった一世帯、太魯閣族でもなければ、平地人(太魯閣族の人は原住民以外の台湾人を平地人と呼ぶ)でもない世帯がある。それが例の日本人家族である。

部落内には夫が太魯閣族で妻が日本人という世帯が一世帯、逆に、妻が太魯閣族で夫が日本人という世帯が一世帯あるが、後者の夫が日本人という方は、現役を引退してこちらに来た人だ。
家族全員日本人という世帯はあの旦那と嫁と娘の世帯だけである。
しかしながら、この日本人家族、部落の人から見ても日本人には見えず、どうみても原住民にしか見えないようだ。色は黒く日焼けし、何事も本音で語り、変な遠慮もせず、性格もあっさりしている。彼らが知っている日本人とは程遠いようである。まあ、だからこそ、部落の中で生きていけるのだろう。

吾輩が見守り続けている秀林村だが、日本統治時代には、沢山の日本人が住んでいた。日本人住居区があり、木造の風情のある家屋が並んでいた。戦後、国民党がやってきて、これら全ての日本人住居を取り壊した。秀林村にあった「秀林神社」も取り壊された。
秀林村からは日本統治時代の色は一切消されたのだ。当然、太魯閣族の人達にとっても当時は大変だった。日本統治時代は日本語教育。家に帰れば太魯閣語。しかし、国民党がやってきて、昨日まで日本語教育だったのが、突然、北京語教育に変わった。教師はすべて蒋介石と共にやってきた外省人(台湾では彼らを外省人と呼ぶ)。子供たちは先生が何を話しているのか全くわからなかったそうだ。
歴史も中国大陸の歴史ばかり。台湾の歴史はすべて抹殺されてしまった。最近になってやっと歴史の授業内容が大幅に見直され、台湾の歴史について勉強するようになったのだ。
日本では考えられないことである。

一時、今は野党の民進党が政権を握ったが、その後また国民党政権に変わった台湾。
原住民の人達は、原住民というだけで数多くの差別を受けている。その内容の一部を後日また紹介しよう。

吾輩は差別されても力強く生きている太魯閣族を見続けてきた。そしてこれからも見守り続ける。
このブログを通して、日本の諸君にも少しでも太魯閣族の事を知って貰えれば、そして、「一度、秀林へ行ってみたい」と思って貰えれば嬉しく思う。
その時は是非、生の吾輩を見て欲しい。秀林村からならば吾輩を一望することができるからな。

【今日の吾輩】

 
 
【今、秀林村で咲いている草花たち】

 



 

2012年9月24日月曜日

久しぶり!!今日からまた吾輩の独り言に付き合ってくれれば嬉しいなあ!

諸君、久しぶり!!

802の台風による秀林村の被災からまもなく2ヶ月。村の復興工事も一応の目処がついた。しかし、また新たな台風が花蓮目指して進んでいる。どうか秀林を直撃しないように祈るだけだ。

さて、この2ヶ月の間に、例の日本人家族にも色々な変化があったようだ。簡単に説明しておこう。
まず、7月19日から始めたトンカツ屋の方だが、お客様からの要望でお弁当を始めた。もちろん、メインはトンカツ弁当。それ以外に、豚肉を使った日替わり弁当。毎日、この2種類のお弁当だけを販売しているようだ。
豚は、太魯閣族の人達にとっては非常に重要な食材である。結婚式・お葬式の際には必ず、豚肉を近所に配るという習慣がある。
朝から豚を一頭、自分達でさばくのだ。少し残酷な話ではあるが、屠殺する際に、豚の鳴き声が大きれば大きいほど良いとされている。さばいた豚はまず最初に山の神にお酒と一緒にお供えをする。その後、部位ごとに分けられ、近所へと配られるのである。

話は戻って、お弁当屋の方だが、なかなか好評の様だ。どうやら旦那の味付けが太魯閣族の人達の嗜好にマッチしたようだ。
太魯閣族の人達の基本的な味付けは少量の「塩」。例えば、バーベキューの際にも、BBQソースは使わず、塩で食する。後は、日本風に言えばタバスコで辛味を付ける。実に簡単である。
太魯閣族の人達が昔、山奥に住んでいたい頃は、塩は非常に貴重なもので、大量に使用することはなかった。また、料理もほとんどがスープ主体の食事だった。故に、今でも彼らの作るスープは絶品である。栄養バランスを考えたスープで、季節にあわせたスープ料理を作る。例えば、夏場は、体の熱気を下げるスープ。冬場は逆に、熱気を上げるスープ。
どうやら、昔の人達はこの様な食生活をしていたので、今でも非常に健康だそうだ。最近では、ファーストフード等々が入ってきて、昔の人ほど健康体ではないようだ。先人の知恵を今こそもう一度見直す時かもしれんな。

おやおや、また話題が反れてしまった。まあいいかあ。日本人家族の事は今後、追々報告していこう。

今日は最後に、802で傷つく前の吾輩と、傷ついた後の吾輩を紹介しておこう。正直なところ、今でも山裾の方では大きな岩達が、何とかぶら下がっているという状態で、大雨が降ればいつ崩壊するかわからない状態である。
故に、今回接近中の台風、何とか進路を変えて欲しいのだ。

【傷つく前の吾輩】


【傷ついた後の吾輩】


                   【今、秀林村で出会える草花たち】