2012年5月31日木曜日

私が今回のブログの主人公、「トンガリ山」


日本の皆さん、ようこそ我が太魯閣・秀林部落へ!!

ここが秀林部落への玄関口。台湾鉄道「新城火車站(駅)」別名、「太魯閣」。
別名でもお判り頂けるように、ここは花蓮の観光名所「太魯閣渓谷」の玄関口。
駅の後ろにそびえ立つのが今回のブログの主人公である、「トンガリ山」。
秀林部落の太魯閣族の皆には、「大鷲が羽を広げている姿にも似ている」と言われている。
そのために、部落の皆からは「部落を見守って下さっている」と言われ、ちょっと尊敬されているのだ。

さて、秀林部落には太魯閣族の人達が住んでいるのだが、太魯閣族の人達は今まで本当に苦労をしてきた。
戦前は、「太魯閣族」として独自の文化・習慣を持っていた。しかし、第二次世界大戦が始まって、
日本が台湾を統治。台湾に元々いた太魯閣族をはじめとする原住民は日本の統治に反対すべく、最後の最後まで日本軍と戦った。しかし、結果は敗北。日本の統治が始まり、原住民の人達は差別を受ける事になり、住むところも強制的に奪われ、仕事も肉体労働、戦場では、真っ先に敵軍に突入する先行部隊と辛い思いをしてきた。
さらに、原住民の人達は各部族ごとに独自の言葉・文化・習慣をもっており、名前を持っていた。
しかし、そのすべてを否定され、名前は日本名、言葉は日本語、部族独自の文化、習慣は禁止となった。
戦後、今度は、中国から蒋介石率いる「国民党軍」が中国本土での毛沢東との戦いに敗れ、台湾へ逃げてきた。そして、台湾に中華民国という国家を築いた。
ここでもやはり、原住民の人達への差別は続いた。原住民そのものも、9つの部族に色分けされた。
太魯閣族は亜美族と一緒にされ、政府の正式記録から、太魯閣族という文字そのものも消されてしまった。
名前も中国式の名前で戸籍登録され、言葉も中国語(北京語)が国語となった。
差別・迫害を受けた原住民の人達は、生活の基盤を山間部へと移し、そのために、一時は、原住民の事を「山地人」と呼んでいた時期もあった。

2004年、太魯閣族は立ち上がった。自分達の独自の文化・習慣・歴史を守るべく、台湾政府に直談判。
結果、阿美族と一緒にされていた太魯閣族は、「太魯閣族」として政府が認める事となり、改めて歴史の表舞台に返り咲いた。

このすべての歴史的事実を「大鷲が羽を広げている姿にも似ている」と言われる私はずっと見つめてきた。

ただ、これだけは言える。どんなに苦しい時でも、太魯閣族の皆は、笑顔を忘れず、そして、助け合いの精神を忘れずに生きてきた。しかも、日本人に対しても優しく迎え入れるという大きな心と優しい心を持った、素晴らしい部族である。

その太魯閣族が沢山住んでいるのが花蓮県秀林郷。この秀林郷に、ある日、3人の日本家族がやってきた。

秀林部落に日本人が住むのは、何と、戦後になって初めての事。噂は一気に部落中に広まった。
でも、この日本人家族、少し普通の日本人とは違う様だ。

まず、部落生活では必需品と言われている車もしくはバイクがない。免許は持っている様だし、ここへ引っ越ししてくるまでは、荒っぽい運転で有名な台北市内で運転をしていたらしい。
だからこの家族、どこへ行くのも徒歩。歩くは歩く。1時間、2時間、平気で歩いている。
そのため、親父さんもお袋さんも、太魯閣族の人達よりも色黒になり、どう見ても日本人には見えない。
食生活もすっかり現地化しており、太魯閣族の人が大好きな「かたつむり」も「台湾エスカルゴ!!」などと言って、喜んで食べている。
いやはや、誠に変わった日本人が秀林部落に来たものだ。

今日からは、私、トンガリ山から見た、この変わった日本人家族の生活と、秀林部落の素晴らしい大自然を日本の皆さんに伝えていきたいと思う。

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