2012年6月16日土曜日

今日の吾輩は少々熱くなり過ぎた!すまぬ!!


世間一般に「成功者」と呼ばれる人達。その人達のコメントを聞いていて吾輩が感じる事を今日の言いたい放題にした。

今の日本は経済的に少々苦しい状況にはなったというものの、戦後、みごとに「成功した国」と言えるだろう。
でも、今、何故、その成功者が失速してしまったのか。吾輩はこの一言に尽きると思っておる。
あくまでもこれは吾輩の意見だから、反論もあるだろう。
しかし、反論する前に、その人に聞きたい。日本の成功の影で起こった歴史的悲劇を本当にすべて知った上での反論であるかを。

何故、吾輩がこの様な事を記するか。理由がある。吾輩が鎮座している花蓮・秀林は以前にも話したが、「太魯閣族」の聖地だ。この太魯閣族の人達が過去にどの様な歴史を歩んだか、ほとんどの日本人はご存じないと思う。下関条約以降台湾を統治した日本は樟脳によって莫大な利益を生んだ。その樟脳は、台湾で栽培され、伐採され、加工製造されていた。その労働力となっていたのが、台湾の原住民である。樟脳の産地の一つでもあった花蓮で過酷な労働を強いられていたのが「太魯閣族」の人達なのだ。
その花蓮で次のような悲劇が起こった。

花蓮を含む台湾東部における日本の統治政策が始まってまもなくの1896年(明治二十九年)11月(日本側では12月となっている)、太魯閣地区の監視をおこなっていた花蓮港駐屯は軍規が乱れており、その結果、一人の日本兵による李阿隆の弟の妻(日本では泰雅族とされているが、正確には太魯閣族。よって、以下全て太魯閣族と称す)に対する暴行、強姦に太魯閣族の怒りは爆発した。太魯閣族の厳しい生活習慣として「有夫姦は一般にこれを重罪」とし、報復手段は厳しく、相手を殺害するのは当然のこととされていた。これにより、花蓮港守備隊新城監視哨の任に当たっていた結城亨少尉の率いる一個小隊と太魯閣族の蕃および李阿隆(この地域に200名ほどいた台湾人の有力者)との衝突で結城亨少尉以下23名が殺された。(これを「新城事件」と呼ぶ。)

年が明けた一月には日本軍が太魯閣族討伐のため、阿美族600名を招集、さらに、基隆步兵第二大隊、台北砲兵、工兵一小隊,軍艦「葛城號」を従えて太魯閣へと進攻した。度重なる総攻撃を仕掛けたが、意外にも苦戦を強ひられ、退散もさることながら死亡者を多数出す結果となった。とくに山岳戦においては地の利を得ている太魯閣族の方が圧倒的に有利であった。(これを「太魯閣事件」と呼ぶ)

さらに、明治三十九年七月三十一日、賀田金三郎の経営する賀田組は、樟脳製造事業のため太魯閣で樟を伐採していたが、太魯閣族の聖域である狩猟地域まで侵入したために彼らは激しい怒りと不満を爆発させた。また、樟の伐採に彼らを労働力と使用していたが、その金銭問題も新たに悲惨な事件を引き起こす一因となった。この事件では太魯閣族の十四社が蜂起し、太魯閣の監視にあたってゐた花蓮港庁長・大山十郎以下官憲および賀田組職員など二十五人が威里製脳事業所で殺害された。(これを「威里事件」と呼ぶ。)

そしてついに、大正二年に台湾最大の戦争と呼ばれる「太魯閣の戦役」ではすさまじい討伐作戦が展開されることになった。
その結果、大勢の太魯閣族が殺害された。

こんな悲しい事件があったのだ。


その後、
昭和十二年に新城社が造営されるが、この太魯閣族との痛ましい交戦があった場所である。大正三年、太魯閣事件が収束したことにより、太魯閣招魂碑が造営された。これが昭和十二年十月、新城神社造営の基礎になったものである。

新城社は、終戦後、本殿がすぐに取り壊された。そして1954年、スイスの宣教師が布教に訪れ、新城社跡地に教会を建てることになった。1964年に建造を開始、1966年に完成。

天主教会と呼ばれる様になった。教会そのものの建物は、「ノアの箱舟」を模して設計されている。


                   【新城社址】












この歴史的悲劇を二度と繰り返さないためにも、歴史の事実に眼をそむけずにいてもらいたい。

これは、人生においても同じ事だ。「成功」という結果は、決して自分一人の力では勝ち得ないのだ。時には誰かを踏み台にし、時には誰かの厚い恩を受け、支えられ、応援されて初めて勝ち得るものではないだろうか。吾輩はそのように思うのだ。今日の吾輩は、少々熱くなっておるなあ。

【頭冷やさんといかんな。反省じゃ。】










 

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