2012年6月27日水曜日

失ってからでは遅いのだ!


今日の秀林はとても暑い。吾輩の顔の周りも雲で覆われてしまい、これも近づいている台風の影響かと思いきや、太平洋側は快晴ではないか!


しかし、花蓮は台北の様な都会とは違い、木陰に入ると、涼しい風を感じる事ができる。天然のエアコンとまではいかなくても、冷風扇がある様なものだ。

人間という生き物はこの地球上で自分達が支配者であると思い込んでいる様なところがあるな。
だから、平気で山を削り、木を倒し、海を埋め立て、生き物を乱獲し、公害を撒き散らし、ごみ・タバコをポイ捨てし、すべてを自分達の意のままにしている。
また、地方自治の世界に目を向けると、知事や市長などという肩書きがついた途端に、何か自分がその地域で最も偉い存在になったかのように錯覚し、自分が不要だと思うと、歴史的建造物でも平気で壊したり、市民にとっては必要だと思う施設を閉鎖したり、まあ、好き勝手をする。

そう言えば、旦那から聞いたが、日本では、歴史的建造物も老朽化が進んだ。行政の保存指定を受けていないという理由で、平気で取り壊すそうだな。正直、台湾も同じようなところがあるが、なぜに、古いものを平気で取り壊す事ができるのだろう。先人達の歴史、ストーリーを完全にこの世から消し去る権限が、その時代の人間にあるのだろうか。吾輩は不思議に思えて仕方ない。

諸君にこんな経験はないか。子供の頃使っていたおもちゃ。その時は「もう飽きた。古くなったし要らない」と捨ててしまった。しかし、数十年経ってから、テレビや雑誌でその当時のおもちゃが紹介されていて、たまたま自分が持っていたおもちゃと同じようなものが紹介されていた。すると急に懐かしくなり「あー、あの時捨てずに持っとけばよかった。後の祭りかあ・・・。」と。
この「後の祭り」という事が人間には多いようだな。

そこで今日の言いたい放題だが、


これは人間である以上、いくら気をつけていても起こりうる事だと吾輩は理解しておる。
先に述べた、自然や建物に対してもそうだが、もっと身近な事でいうと、親だ。

そう言えばこの前、旦那と娘の会話が聞こえてきた。えーと、確かこんな会話だった。

旦那 「親孝行って何かわかるか?」
娘   「親に喜んでもらえるようにすることじゃないの」
旦那 「確かにそうだな。でも、それ以外にもう一つあるのだけわかる?」
娘      「・・・・・・・・」
旦那 「それはね、親が生きているあいだに一つでも多くの想い出を作って上げることなんだよ。
普通は親の方が先に神々のところへ移民する。それまでの間、どれだけ笑顔の想い出を 
親と作ったか。それがイコール親孝行なんだよ。」

確かこんな内容だったと思う。親と子との想い出作り。子供が小さい頃は当然、想い出はたくさん作れる。しかし、子供が成長するにつれて、この笑顔の想い出というのが年々、少なくなる。

どうやら旦那の場合は、父親が非常に厳しい人だったようで、旦那が大学生になっても、必ず、家族で一緒に行動が大原則だったようで、休みごとの家族旅行は旦那が結婚するまで恒例だったようだ。しかし、旦那が結婚して家を出たあと、歳の離れた兄弟の代になってからは、この恒例の家族旅行がぐんと減ったらしい。父親が病床で「お前と一緒に行ったパラオ諸島、今度はお前の家族も一緒にみんなで行こうな。」と語ったらしい。結局、それは実現出来ないまま、父親は旅立ったらしいが、父親にとっては、旦那が大学生の時に家族で行った旅行が一つの大きな喜び出会ったことを旦那は改めて感じたらしい。

失ってから気づいてはもう遅いのだぞ。失ってから「あの時にやっておけばよかった」と後悔しても、もうどうする事も出来ないのだ。

吾輩は永年、高いところから人間の世界を見下ろしてきたが、「あの時に・・・・」と後悔して大泣きしている奴を何人も見てきた。

失う前に、もう一度、よーく考えて欲しいなあ。






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